□ 2017.07.31 旧小坂家住宅
 旧小坂家住宅は、衆議院議員等を務めた小坂順三が昭和13(1938)に建てた別邸建築です。昭和20年に戦災で渋谷の本宅が焼失してからは本邸として利用されました。施工は清水組(現清水建設株式会社)が請け負いました。

 この別邸建築は、明治から昭和初期にかけて政財界人の別邸が多く建てられた国分寺崖線沿いに位置し、現在まで残る貴重な建築遺構の一つです。
 屋敷地は崖線上の高台に主屋、中門および塀が北寄りに建っています。そして崖線の高低差を利用して回遊式庭園をつくり、崖線下の敷地南西に表門が配置しています。

 本工事では、主屋の耐震補強工事を行うと共に、バリアフリー化改修工事と老朽化部分補修工事を行いました。地域の人々が集える場として公開・活用することを目指し、多目的トイレや授乳室、台所等を整備しました。

 補強壁等は将来、文化財建造物保存に対する考え方が変わった場合に元の姿に戻せるように、既存壁を残した上で耐震壁を設置しました。また、同様の配慮からバリアフリー外部新設スロープも組立式としました。

 現在は世田谷区が所有し、主屋・中門及び塀、表門、裏門は区指定有形文化財に指定されています。一般財団法人世田谷トラストまちづくりの管理の元、建物・庭共に一般公開されており、地域の人達から親しまれています。




 旧小坂家住宅
【所在地】〒156-0041 世田谷区瀬田4-41-21 世田谷区立瀬田四丁目広場内

 世田谷区ホームページ内(旧小坂家住宅)
 【ホームページアドレス】  http://www.city.setagaya.lg.jp/index.html

 一般財団法人世田谷トラストまちづくりホームページ内(旧小坂家住宅「瀬田四丁目旧小坂緑地」)
 【ホームページアドレス】 http://www.setagayatm.or.jp/trust/map/pcp/seta4_detail.html
 2017.07.18 柳沢邸2階建て住宅  

 柳澤家は、嘉永年間から続く世田谷区大原の旧家です。柳澤邸の屋敷地は、国登録有形文化財の小住宅を中心に2階建住宅と庭園で構成されています。

 国登録有形文化財の小住宅は、戦後復興期の民芸運動を継承した伊東安兵衛設計による建築で、昭和261951)年に建てられました。そして2階建住宅は、書道家の柳澤君江により昭和361961)年に住居兼書道教室として建築されました。さらに敷地南側には回遊式庭園が広がり、現在は「大原一丁目目柳澤の杜 市民緑地」(管理・世田谷トラスト)として公開されています。

 本工事では2階建て住宅についての耐震補強、劣化部の修理、保存活用改修(事務室、多目的スペース、茶室、トイレ等)を行いました。外壁塗装は調査及び資料より当初は塗装を施していなかったことが確認されたため、外壁全体の塗装を取り除き、保護塗料のみ塗布しました。

 なお工事中、地域住民と区内大学生を対象に、職人を交えて歴史的建造物の保存技術等に関するワークショップを柳澤君江文化財団主催(協力・建文)で開催しました。


 ※過去の記事はこちらから




 
 一般財団法人 柳澤君江文化財団

【所在地】〒156-0041 東京都世田谷区大原1-26-1
【ホームページアドレス】  http://www.y-kimie.jp/index.html 

□ 2017.07.18 真照寺薬師堂

  群馬県の太陽誘電鰍フ創業者記念館は、昭和35年に現地に移築された近代和風建築ですが、その来歴はとてもユニークなものです。

 もともとは榛名工場の事務棟として使用されていた建物ですが、昭和35年の趣意書には以下のような由来が書かれています。

・前身建物は、明治5年に高崎城址に創建された、旧高崎歩兵第15連隊の兵営とともに建設された、将校集会所 に隣接する貴賓室である。
・貴賓室の用材には、高崎城天守閣の一部を原型のまま保存して建てたとされる。
・明治、大正歴代天皇の御座所にもなった、由緒ある建物である。


 この趣意書の内容を確実に裏付ける資料は、現在のところまだ発見されていません。
しかし現存する銅版画(明治33年)には「酒保 准仕官下士團 集会所」と書かれた2階建ての建物の裏側に隣接する、寄棟造りの平屋建物が描かれており、この建物が「貴賓室」である可能性があります。

 また高崎城には天守閣はなく、三重の隅櫓のことを指しているのではないかと類推されます。
残念ながら本建物の用材が高崎城のものかを確かめることはできませんでした。

 現在、旧高崎歩兵第15連隊の遺構は、そのほとんどが姿を消しており、城郭建築の用材が転用されていたとなると、ますます貴重な建築物となります。

 今後の発見に期待したいところです。

□ 2017.06.05 デ・ラランデ邸


 デ・ラランデ邸は新宿区信濃町に所在した木造3階建ての西洋館です。JRの車窓越にもその姿を望むことのできた西洋館として、永く信濃町のランドマークでしたが、平成11年に江戸東京たてもの園により解体され、平成25年に移築復原を終え、現在一般公開されています。
 本建物はカルピスの発明で有名な三島海雲氏が昭和31年に取得し、解体前は三島食品工業の本社兼販売所として利用されていたもので、明治時代の建築家、デ・ラランデの自邸としても知られています。

  デ・ラランデは、明治30年代後半に来日したドイツ人建築家。重要文化財にも指定されている、神戸の旧トーマス邸(風見鶏の家)の設計者でもあります。来日後、明治42年に本建物を自宅兼事務所とし、大正3年に急逝するまで活動の拠点としていました。調査により、本建物は理学博士・北尾次郎氏が建築した木造平屋建ての洋館を前身建物とし、これを基に木造3階建てへの改築をデ・ラランデが設計したものと考えられます。  
 復原時期は、デ・ラランデが居住し、建物の特徴が最も現われている明治末期から大正時代初期の頃としました。また、バリアフリーへの対応や、活用のために復原棟の北側にトイレ・厨房機能を設けた厨房棟(RC造平屋建て)と昇降設備を設けたEV棟(カーテンウォール鉄骨造3階建て)を新設しました。これら別棟は、復原棟と差別化できるようなデザイン・材料を採用しました。

 建物正面。写真左端が玄関部分。
屋根はフランス瓦葺き。外壁は1階を下見板張り(油性ペンキ塗装・白)2階の白色部分は漆喰ですが、外壁補修で亜鉛鉄板に油性ペンキ塗装を施したものを表面に取り付けています。赤い部分は
スレートの鱗張りに塗装を施したものです。
 旧玄関の外観。テラス状になっており、内部は下写真の旧玄関ホールです。 
 旧玄関ホール。石膏製のアモール像が天井の照明飾り。壁と天井の見切り部分の蛇腹も石膏製です。
 旧食堂内部。解体前は事務室として使用していたため、蛍光灯が取り付けられていました。彫刻格天井は石膏製。
この部屋の小壁には石膏レリーフが埋め込まれています。
   
 

 赤色に塗られたスレート葺きの腰折れ屋根と、白色に塗られた下見板張りの外壁が特徴的で、ベイウィンドウ、バルコニー、窓先棚などが外観意匠にアクセントを与えています。

 
   

江戸東京たてもの園
【所在地】〒184-0005 東京都小金井市桜町3-7-1(都立小金井公園内)
 
 □ 2017.06.12 五島美術館 古経楼・冨士見亭

  五島美術館は、国分寺崖線が舌状になっている場所に位置し、敷地内に点在する古経楼と冨士見亭は、崖線の高低差を利用して配置されている茶室です。 古経楼は、明治39(1906)年に田健治郎が建てた「茶寮」で、大正10(1921)年の東宮裕仁の行啓の際に大改修が行われています。その後昭和10(1935)年代初めに五島慶太の所有となり、昭和15(1940)年には西側の一部を取り壊して茶室「松壽庵」が増築されました。

 本工事では、敷地に盛土層が原因と思われる不同沈下が見られたため、まず建物を揚屋し、高圧噴射撹拌工による地盤改良を実施、基礎を新設しました。その後の耐震工事では、既存の雰囲気を残すため、壁補強は可能な限り壁厚を薄くし、細い面皮柱に対して壁際で散りを確保しました。また、壁
の少ない中央部分には制震金物を設置し、水平方向への揺れへの対応を図りました。

 冨士見亭は、昭和32(1957)年頃、晩年足の不自由になった五島慶太の発案により、座礼にも対応
できる立礼席の茶室として藤森明豊斎により設計・建築された茶室です。

 本工事では、小口径鋼管杭による地盤改良を実施し、基礎を新設した後、耐震補強を行いました。冨士見亭は創建以来改築が殆ど無く、錆壁が建築当初のまま現存していました。そのため本耐震工事では、復原が不可能な意匠は可能な限り手を加えないように工事を行いました。
 その他、経年劣化が進行していたため、屋根の葺き替え及び外部劣化修理を行いました。
古経楼 外観 
古経楼 内部

 
以上、写真3点撮影 小川重雄
 冨士見亭 内部
五島美術館

【所在地】〒158-8510 東京都世田谷区上野毛3-9-25
【ホームページアドレス】  http://www.gotoh-museum.or.jp/